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作文練習とメモ

三島vs全共闘 感想・要点整理

三島vs全共闘を見た。三島も、芥正彦も、木村修もかっこ良かった。筋肉あるとファッションが適当でもサマになるから筋肉をつけろという言説があるけど割とそうかもしれない。

 

・他者について

 まず討論をこの次元から始めるというのがすごい。映画はしきりに三島側の議論の誠実さを強調していたけど、この議題を設定したとおぼしき全共闘側の木村氏も誠実だと感じた。観念を重視した最後の時代の産物なんだろう。今同様の状況があるとして議論をここから始めるとはどうしても考えられない。そんな状況は本当にヤバい気がする。

 三島の他者観は同調できなかった。のちに触れられることになる彼のオナニー的観念への言い訳の道を整備していると感じた。実は順序が逆で、こうした他者観が彼の出発点だった可能性は大いにあるけど。そうした他者観を持っているにしても、やはり他者を努めて主体として見ようとすべきだと思う。どんなに裏切られても。実際他者との完全な合一なんてあり得ないっぽいけど、でもそうしようとするベクトルの中にしか希望はなかろうと思います。ここでエロティシズムが例えに出されたのに男性性を感じた。

・事物について

 この辺から芥正彦が乱入してきて討論会がグッと見世物としての面白さを帯びる。ここでの芥正彦の態度が不誠実で嫌いだという人がfilmarksに何人かいたけど、この時の芥正彦はプロレス的な、演劇的な、茶番的なものをここにあえて持ち込み、三島もそれを了解したんだと思った。その証拠に三島は「映える」写真を撮らせてたし、両者とも自虐をする場面がありましたよね。なんなら芥の子と思しき赤ちゃんを連れてきたのも??と勘ぐってしまう。二人はその上で、表層にフィクション?を保ちながら、かつ深い議論をしていってる。(むしろ、表層をフィクションというシェルターで覆うことで深い議論を可能にしている。)二人ともエンターテイナーだと思った。ここから議論が難しくて高速になるのでなんだかよくわからなかったけど、他者についての議論の延長ですよね?そうこうしていくうちに持続性と名前の話になってったよね?

・持続性について

あんまり覚えてないッス。

・解放区について

 持続性の話から解放区の話に繋がっていったはず。解放区という言葉はここで初めて知ったけれども、非常に身近な概念だと思った。たぶん芥正彦は、解放区は持続が問題ではないという立場だったと思うけど、割と同意できる。さっきの他者の話と同様、大事なのは運動すること、ベクトルであって、革命にしても、もし普通に達成してしまったら解放区は解放区ではなくなるわけで、ではその先はどうするのか?(筒井康隆の小説にそんなのがあった。)この映画を見て自分はどちらかというと全共闘側だなとは思ったが、ここらへんが納得できないので自分は全共闘側にもなりたくないと思った。結局のところそれ共産主義革命じゃなくてもよくない?革命にロマンみたいなのを託してしまってる時点で、ある意味三島と大して変わんない気がする。っていうか、この辺の点で両者は結託できた、ってことか。

 ここらへんだったかどうか忘れたけど、途中三島と芥正彦の議論に全共闘側の学生が野次をとばして、乱入した場面があった。あそこできちんと壇上にあがって意見を言った学生もすごいと思った。芥正彦が壇上に来いと言った時点では、ギリギリそのまま黙ってしまう方が彼の精神的ダメージは少なかったのではないか?学生自身も、あの場面で壇上に上がり、自説を述べたら、二人にああやってあしらわれるだろうな、という未来が見えていたはずだ。しかし彼はきちんと無様に醜態を晒しきった。特に、結局彼の演説の結びが「全共闘の名がすたる。」だったときなんて惨憺たる有様だ。関係ないような気もするけど、映画のどっかで、現在の芥正彦が「俺が生きていることが敗北でないことの証だ」みたいなことを言っていた。全く同じことを水谷孝も言ってたはずだ。JOJO広重早川義夫の「サルビアの花」について、この当時の若者は恥をかいても生きることを選べていたので偉いと書いてたのを思い出した。

 

天皇について

 ここに至り三島のオナニー的観念が露骨になってくる。天皇というものをこんなに好き勝手自分好みにカスタマイズしていいんだという衝撃がまずあった。これを見るまで自分は非共同体主義の右翼は原理的に存在しえないと思ってたけど、これなら確かに可能やろな(苦笑)と思った。自分の場合、天皇ということを考えてまず浮かぶのはあの糸目のオッサンなので、なんというか、かなりかけ離れていると思った。みんな天皇がどんな人間かちゃんと知ってるのか?俺はいっぺん天皇と居酒屋で飲んでみたい。それと、日本文化はすべて天皇(制)に集約できるというのは嘘乙と思った。でも実際平安時代とかの農民とかは天皇のことどう思ってたのか気になる。自分が無知なだけで、実際のところ日本て全部天皇に集約するのかもしれない。そうだったらどうしよう。ここらへんで三島が天皇の思い出を語り出して笑われる場面があったはずだけど、三島が自分のオナニー的観念に十分自覚的だったのに驚いた。昔三島のドキュメンタリーを見たとき、自分の内側と外側を奇妙に混同した人だと思ったが、最近、”表現者”というものはどうやら皆そういうものらしいと知った。より三島に興味を持った。

 

 この後の話をあんまり覚えてないけど、悪く言えば三島と全共闘の馴れ合いみたいなノリだったと思う。前に尾嵜が言ってたように、極右と極左は「極」というところ、非日常への没入?みたいな点で共通してるんだろうな。

 映画の煽り文かなんかでこの討論が伝説的レベルだ、みたいのを言ってたけど、複雑な気持ちだ。この討論がすごくないわけじゃないけど、じゃあなんで全ての討論はこのレベルじゃないんだろうと思って悔しくなる。全ての討論はこのレベル以上であってほしいし、そうじゃないとヤバいだろと思う。これと全く同じことをカンの音楽に対して思っている。全ての音楽がカン以上のレベルになってくれと思う。この邪念のせいで自分はカンを100%好きになれないでいる。この2つが模範的・規範的性質(に思える)からなのかもしれないけど、なにか少し違う感触がある。

ゲロゲリゲゲゲ『パンクの鬼』曲名の元ネタ (随時更新)

01. ロックン・ロール
02. ダッチワイフ ABC
03. アナル・ボクシング
04. 富永一郎
05. 初体験
06. 勇気ある言葉
07. 彼女の名前のイレズミちんちんにあるよ
08. サザエさんとマスオの SEX
09. タラちゃんのオナニー
10. 恋のブリッコ・マシンガン
11. ヤマハ楽器で北村
12. GOOD MAN のオヤジは GOOD MAN
13. 戦メリ3分なめとんのか

→『戦場のメリークリスマス』は1983年公開の映画。
14. 噂のキム・ヤウチ
15. やるならおもて出ろ
16. 彼女から学んだ事
17. コーヒーもう一杯

→『コーヒーもう一杯(One More Cup Of Coffee)』は、1976年発表のボブディランの曲。
18. 心のままに
19. 誰もが今淋しい
20. 俺のハートが NO と言う
21. 寝顔やさしく

→『寝顔やさしく』は、片岡義男による小説。
22. 人生は野菜スープ

→『人生は野菜スープ(Life is AMinestrone)』は、1975年発表の10CCの曲。
23. マリオ80万点
24. コースター・イン・ザ・としまえん
25. ハルヒコ・ASH
26. クライマックス御一緒に
27. 早い者勝ち
28. ヤンボー・マーボー天気予報

ヤン坊・マー坊はヤンマーの企業マスコットキャラクター。また、『ヤン坊マー坊天気予報』は1959~2014年に放映されたテレビ番組。
29. 又しても入院
30. 下北沢まで2時間
31. セクシー・ナイト(三原順子
32. I’M NOT IN LOVE(10CC)
33. ハートに火をつけて(DOORS)
34. SATISFACTON(R・STONES)
35. COME ON LET’S GO
36. ローラー
37. センズリ・オールナイト
38. センズリ・ジェネレーション
39. センズリ・パンチパーマ
40. BOYS DON’T CRY(THE CURE
41. ハート・カクテル

→『ハート・カクテル』は、わたせせいぞうによる漫画。
42. B面の最初の曲

→『B面の最初の曲』は、ゲロゲリゲゲゲのEP"Sexual Behabior in the Human Male"の収録曲。
43. 人生山あり谷あり
44. 美樹の往人のトカゲ野郎
45. パンクの鬼
46. ウルトラ・ソニック残少
47. へんちんポコイダー

→『へんちんポコイダー』は、永井豪による漫画。
48. 木村君の自殺
49. おっぱいボインのおけつプリン
50. 早くも売り切れ
51. 渋谷君は23才
52. TOKYO ANAL DYNAMITE
53. ロックン・ロール*
54. ダッチワイフ ABC*
55. STATE CONTROL&ROCK’N’ROLL
56. FUCK OFF
57. カムカムちんぼけ
58. DESTROY
59. アイ・ラヴ・ユーは000から
60. FIST FUCK
61. シーナー・イズ・ア・パンク・ロッカー(RAMONES
62. 南野陽子・ヨコハメ・タテハメ(ダウンタウン・ブギウギ・バンド
63. BROWN OUT
64. 北海道
65. おちんこ
66. KILL BABY KILL
67. ATTACK
68.(サウンド・チェック)
69. ASS MORNING
70. 天国パイロット
71.(サウンド・チェック)
72. 一円
73.(サウンド・チェック)
74. 死ね
75. 脳

5月30日の重要な瞬間

久々に単発バイトで金を稼ごうとしたが、送迎バスの到着する直前、無意識にビーサンを履いてきてしまったのに気づき、踵を返した。時間が余ったので、幕張本郷駅から自宅まで歩いた。その道中、千葉の郊外にまったく似つかわしくない、モロに下北っぽいおしゃれな本屋があった。小さいトレーラーハウス?を改造したような店の壁には常連さんの落書きが書いてある。中で本を眺めつつふと外を見ると、散歩中とおぼしき、実直素朴な千葉の農家のおばあちゃんが珍妙そうにこちらを見ている。おばあちゃんは「ハァ~すごいねえ」とか言ってたと思う。二つの大きくかけ離れたカルチャーが、一切の緩衝材を持たずに真っ向から衝突した瞬間である。おばあちゃんの脳内に何が起こっただろうか?

 

異物としての過去(過去≒未来という話)

自分はルーツミュージックは嫌いだが、ルーツミュージックが参照元とするような音楽(以下「ルーツ」と呼ぶ)の一部は好きである。これはどうやらほかの人からするとちょっと変?らしい。確かに、ふつうに考えるとルーツミュージックはルーツを目指して作ってるんだから音楽性は似ているはずなのに、自分はなぜそれを区別するのだろうか?ルーツミュージック好きにマウントを取りたいだけなのか?そうでないとすると...と考えたのが以下の文章。

 

ルーツミュージックは、ルーツとされる一定の音楽を志向して作られた音楽だ。したがって演奏者の意識には、彼らの中でゆるぎない規範として定められたルーツにどれぐらい漸近できたか、100点中何点か、といった優等生的な考えがどうしても下地にある。それに対して、ルーツ演奏者は前近代的な意識でもって、自分のアクセスできる範囲にあった伝統を守るか、あるいは、商業的需要や文化的混交に合わせてそれを変質させ革新していくか、という、基本的には以上の2つの原理で動いていると考えられる。いずれにせよ、彼・彼女らには規範意識が存在しないために、優等生的なところが鼻につくということも起こりえない。

このように考えを進めていくと、自分は「異物感」をもってルーツに接しているということに気づいた。自分自身、大方の現代人と同じく、音楽とは自己表現であり、おおむね高尚だ、という価値観に染まりつつ音楽を聴き、演奏してきた。これに対して、ルーツ演奏者のそれは全く異なるのではなかろうか、と思う。なぜなら、先に述べたとおり、彼・彼女らにとっての音楽とは、より卑近であったろうからだ(この部分は妄想が入っている)。音楽そのものへの考え方でさえこれだけ違うのであれば、それに付随する演奏上のルールや楽器に対する考え方、さらには音楽一般を超えたこの世のあらゆる物事に対する感覚は、想像もつかないほど異なる未知のものだったろう。これが、自分がルーツに接する際生じる「異物感」のもとになっている。

さらに、自分の中では、こうした「異物感」ないし「未知」という感覚は、現代の新しい(ムーブメントの初期に位置付けられるような)音楽に触れたときのそれと全く同一であり、見出す価値も全く同一である。つまり、私にとって過去の音楽は、未来の、現在進行形の音楽と全く同一である。(違う点としては、過去の音楽は既に存在してからそれなりの時間が経過しており、ある程度先人による歴史としての整理がなされていて、それゆえディグが容易だということぐらいである。)

要は、自分は、優等生的規範意識がない音楽が大好きで、そこに関して年代は関係ないということです。完

映画「音楽」のなかで嫌だったところ

前に映画「音楽」を見た。めちゃくちゃサイコーの映画だったが、自分の中でひとつだけ不満だった点がある。古美術の森田のふるまいである。

古美術(とそのメンバー森田)は、登場時、古武術と対照的に知識と自意識で音楽をやっているような印象があり、自分はそれに嫌悪感を持った。しかし、その後のシーンで古武術(研二脱退前)の演奏に感動する彼のようすから、自分は「こいつは演奏者としてはダメだけど聴取者としては度量が広い(古美術的な評価軸をもたない音楽を許容できる)んだな」と思い、一旦は森田を見直した。その後、古武術に触発されてか、様々な奇行を通じて音楽上の自我を獲得したようだった森田だが、最後のライブのシーンでは古武術の演奏に爆音ファズギターソロをかぶせ、もっともらしく装飾する(=古武術の音楽に対して勝手に聴き方のガイドラインをつくる)という暴挙に出てしまった。個人的には、自分の好きなサイケデリックロックに寄せられた分、より一層腹立たしかった。以上が森田の一連の行動である。

こうして森田の行動を追っていくと、結局森田は変われなかったんだと思うしかない。変われたように見せかけて、より巧妙に「もっともらしさ」を付与する術を身に着けてしまっただけなのかと思うと、まぎれもない自分自身のことのようで暗澹たる気持ちになる。やはり音楽オタクは「本物」になり得ないのだろうか。そもそも「本物」というのは嘘くさい。よくわからなくなってきた。

ラーメンショップ穴川店へいったこと(2020年5月11日)

今日、親の車をパクってラーメンショップ穴川店へ行った。完全に夏がきたという感じの良い天気だった。店へはいると、シワッシワの老夫婦が丁寧に挨拶をしてくれた。客は世間話もひと段落したママ友、仲睦まじい笑顔の老夫婦、常連っぽい労働者風のおっさんしかいなかった。地元に密着して暮らす人々のための店だと思いうれしかった。ネギチャーシューメンと半ライスを頼んだ。座敷席脇の本棚に少年ジャンプがあったので読む。古来より、少年ジャンプが読める飲食店は最高だと決まっている(cf.メルシー)。鬼滅の刃はハッピーエンド間近のようだ。ラーメンが来る。天井隅のテレビはワイドショーを流していて、出演者たちがコロナについて地獄のような議論をしているのがどうしても耳に入ってしまう。そのうちの誰かが「日本人は我慢強いから検査待ちができる」と言っていた。地面が無くなるような感覚になった。ラーメンをすすりつつ、こうして自分が今置かれた状況のすべてが、世界が終わる直前の妙な静けさのようで(実際世界が終わったことなんてないから経験してるはずないのに)、ドアの外の、のんきな光が差し込む郊外の道路とあいまって、なんだか夢みたいだと思った。

覚えている景色2

2014年1月1日、予備校の模擬センター試験を解くやつに参加するため、青パックを持って、朝っぱらからお茶の水の校舎へ行った。午前の科目を終えて、昼食をとりに町へ繰り出した。お茶の水橋から神保町へ下る大きな道へ出ると、普段は人通りの多いその道には車も人も誰一人として通っておらず、妙に静かだった。広い車道のアスファルトは太陽に照らされてやたらにピカピカしていた。せっかくだから車道のまんなかで立ち止まったりした。いまだに観たことがないけど映画「I Am A Legend」の景色ってあんなんなのかなと思っている。