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作文練習とメモ

異物としての過去(過去≒未来という話)

自分はルーツミュージックは嫌いだが、ルーツミュージックが参照元とするような音楽(以下「ルーツ」と呼ぶ)の一部は好きである。これはどうやらほかの人からするとちょっと変?らしい。確かに、ふつうに考えるとルーツミュージックはルーツを目指して作ってるんだから音楽性は似ているはずなのに、自分はなぜそれを区別するのだろうか?ルーツミュージック好きにマウントを取りたいだけなのか?そうでないとすると...と考えたのが以下の文章。

 

ルーツミュージックは、ルーツとされる一定の音楽を志向して作られた音楽だ。したがって演奏者の意識には、彼らの中でゆるぎない規範として定められたルーツにどれぐらい漸近できたか、100点中何点か、といった優等生的な考えがどうしても下地にある。それに対して、ルーツ演奏者は前近代的な意識でもって、自分のアクセスできる範囲にあった伝統を守るか、あるいは、商業的需要や文化的混交に合わせてそれを変質させ革新していくか、という、基本的には以上の2つの原理で動いていると考えられる。いずれにせよ、彼・彼女らには規範意識が存在しないために、優等生的なところが鼻につくということも起こりえない。

このように考えを進めていくと、自分は「異物感」をもってルーツに接しているということに気づいた。自分自身、大方の現代人と同じく、音楽とは自己表現であり、おおむね高尚だ、という価値観に染まりつつ音楽を聴き、演奏してきた。これに対して、ルーツ演奏者のそれは全く異なるのではなかろうか、と思う。なぜなら、先に述べたとおり、彼・彼女らにとっての音楽とは、より卑近であったろうからだ(この部分は妄想が入っている)。音楽そのものへの考え方でさえこれだけ違うのであれば、それに付随する演奏上のルールや楽器に対する考え方、さらには音楽一般を超えたこの世のあらゆる物事に対する感覚は、想像もつかないほど異なる未知のものだったろう。これが、自分がルーツに接する際生じる「異物感」のもとになっている。

さらに、自分の中では、こうした「異物感」ないし「未知」という感覚は、現代の新しい(ムーブメントの初期に位置付けられるような)音楽に触れたときのそれと全く同一であり、見出す価値も全く同一である。つまり、私にとって過去の音楽は、未来の、現在進行形の音楽と全く同一である。(違う点としては、過去の音楽は既に存在してからそれなりの時間が経過しており、ある程度先人による歴史としての整理がなされていて、それゆえディグが容易だということぐらいである。)

要は、自分は、優等生的規範意識がない音楽が大好きで、そこに関して年代は関係ないということです。完